2021年11月26日(金)

昨日は憂国忌でした。
三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地に立てこもり割腹自殺を遂げたのが51年前の11月25日でした。
毎年、この日が来ると改めて三島の死とは何だったのであるか、私なりに考察しているので、今年もブログに載せておきます。
1970年11月25日、三島由紀夫は自分の腹心である楯の会のメンバーを連れて自衛隊駐屯地に乗り込み、総監を人質にとり、バルコニーで革命を呼びかける演説をしました。しかし、三島の演説に感動して立ち上がると思っていた自衛官たちはヤジを飛ばし、深く失望した三島はそのまま割腹自決を遂げます。
当時の三島由紀夫は、ノーベル文学賞の候補にあがる作家としての顔のみならず、勝新太郎や石原裕次郎と共に映画に出演し、若者に人気の雑誌『平凡パンチ』のミスターダンディを選ぶ投票でダントツで1位を獲得し、日本で初めてメディアからスーパースターと呼ばれるような存在でした。
そのような人物が「狂気の沙汰」と言われる事件をなぜ起こしたのでしょうか。
自決の1週間前に行われた古林尚氏によるインタビューの中で、
「ぼくの内側には美、エロティシズム、死というものが一本の線をなしている。
<中略>
ぼくの考えでは、エロティシズムと名がつく以上は、人間が体をはって死に至るまで快楽を追求して、絶対者に裏側から到達するようなものでなくちゃいけない。
ぼくは、そういう考え方をしているから、無理にでも絶対者を復活させて、そしてエロティシズムを完成します」
と述べています。
この絶対者というのは天皇のことであり、バルコニーの演説でも「天皇を中心とする日本の歴史・文化・傳統を守る」ことを強く訴えています。
また、同じインタビューの中で、三島は戦後からずっと余生という感覚があり、軍医の診断で即日帰郷させられたけれども、赤紙が来たときに書いた遺書はずっと彼の内部に生きており、もう遺書は書く必要はないとと述べています。
ボディビルで体を鍛えていた三島は老いを恐れ、男が美しく死ねる年齢は45歳までだと口にしていたことも考えると、彼の死はエロティシズムを完成させるための行為だったのかと思われます。
目まぐるしい時代の変化とともに失われていく日本の伝統的美意識や行動規範、米国追従の政治など、「日本」は影が薄くなっていき、見ているのが苦しいと憂いていた三島にはもう限界だったのかもしれません。
三島事件は、昭和43年にGNPが資本主義国圏内で第2位になり、45年の大阪万国博覧会の開催の二つの出来事を代表とする高度成長期のピーク、そして昭和46年のニクソンショック、昭和48年のオイルショックの狭間で起こっています。
日本の高度経済成長期の終焉と同じタイミングで三島由紀夫が自決したことは、一つの時代の終わりとも言えるのではないでしょうか。
長文お読み頂き、ありがとうございました。
bySARA女王様